速谷神社と平清盛
権禰宜 瀨戸 一樹
NHKの大河ドラマ『平清盛』をご覧になりましたか?私は、この放送を楽しみにしている一人です。そこで質問です。皆さんは平清盛と速谷神社の関係についてお考えになったことがありますか?今回は、平清盛と速谷神社のつながりについて考えたいと思います。
わが国は古代、大小のクニがあり、それぞれのクニは豪族の首長が治めていました。その後、大和朝廷が成立するなかで、クニの首長は「国造(くにのみやつこ)」に任命され、その地域の祭事・軍事・政務を掌握しました。ちなみに、現代まで続いている国造家(こくそうけ)があります。出雲国、出雲大社の千家家・北島家、肥後国・阿蘇神社の阿蘇家、紀伊国・日前国懸神宮の紀伊家です。
広島県にも二、三の国造がいました。なかでも「安芸国造」は広島県の中西部、安芸国を支配する有力な大国造だったようです。安芸国造の同族は、周防国や伊予国など瀬戸内各地の国造に任命されており、瀬戸内の「海の民」との関係が注目されます。
古代の歴史書『先代旧事本紀』には、「成務天皇の時代に飽速玉命(あきはやたまのみこと)が安芸国造に定められた」と記されています。この「飽速玉命」こそ、速谷神社のご祭神なのです。このことにより、古代の安芸国は飽速玉命を祖先神として仰ぐ一族によって統治されていたと考えられています。現在も速谷神社が『安芸国総鎮守』と呼ばれているのは、この一族が安芸国の基礎を固め、開拓発展させたからです。
ところで速谷神社が鎮座する廿日市市は昔、「佐伯郡」と呼ばれていました。今も広島市佐伯区など「佐伯」の地名が残っています。『日本書紀』景行天皇の条に、播磨や讃岐、伊予や安芸、阿波に「佐伯部」と呼ばれる部民集団がいたことが記されています。そして安芸国造の一族から佐伯部を統率するものが出て、のちに「佐伯氏」を名乗ります。佐伯氏は有力で、安芸国の各地を本拠地にして、それぞれ所領する地名を名字とします。また厳島神社神主家も世襲することになります。
平安時代の『延喜式神名帳』には、佐伯郡の神社として「速谷神社」と「厳島神社」の二社が載っています。佐伯氏にとって祖先神を祀る「速谷神社」と崇敬神を祀る「厳島神社」は、ともに朝廷からも篤く信仰され、相拮抗しながら社格を上げていきます。
しかし、二社の立場に決定的な出来事が起こります。平清盛の登場です。厳島神社神主、佐伯景弘は安芸国司となった平清盛の力を借りて、厳島に豪壮な海上社殿が完成させます。空前の盛運をみる厳島神社に対して、かつて安芸国首座であった速谷神社は、厳島神社の摂社の立場となり、一時期、衰退の途をたどります。
平家は「おごる平家」などといわれ、源氏に比べて人気は今ひとつです。しかし安芸国には大変な貢献をしています。海運交通の要所として整備した音戸の瀬戸などが有名ですが、私たちを楽しませてくれる厳島神社の舞楽も、実は平清盛が都から伝えたものです。
平清盛が速谷神社を参拝したという記録は、残念ながら残っていません。しかし当時、山陽道八州でも屈指の大社であった速谷神社を、安芸国司の平清盛が参拝しなかったとは考えにくいと思います。
江戸時代に入ってその霊験や社格の高さから往古の勢いを取り戻していく速谷神社ですが、それまでは、平清盛の支援を得た佐伯氏や厳島神社があったからこそ、生き残ってこられたのかも知れません。それほど往古の大社は、その所在がわからなくなっているということが多いのです。
どうぞ、佐伯氏のふるさと速谷神社に参拝してみてください。境内から瀬戸内海をご覧ください。きっと古代の安芸国の景色が目の前に広がっていくことと思います。
第8号 平成24年4月25日