速谷神社と社格
禰宜 櫻井建弥
神社だよりの第2号は、速谷神社の歴史について、社格、つまり神社の格付けの変遷をたどりながらお話ししたいと思います。
社格とは神社のランクのことで、朝廷などによって定められました。戦後、廃止されましたが、今でも「旧社格」といって、無視できない位置付けとして神社に根強く残っています。
例えば速谷神社の境内入口には、「國幣中社速谷神社」と記された4~5mある社号標が参拝者を迎えます。これは旧広島藩主、浅野長勲侯爵の筆によるもので、県民を挙げた盛大な祝賀イベントの記録とともに、国幣社昇格に対する当時の喜びの大きさを伝えています。
神社の格付けは、歴史上、平安時代に編纂された『延喜式』の中で示された古代の社格と明治政府によって定められた近代社格の二つに大きく分けることができます。
このうち『延喜式』は、延喜五年(905)に醍醐天皇の命令で編纂され、巻九・十は「神名帳」といって、朝廷が所管する神社の一覧表が載っています。神社の由緒略記には「当社は式内社です」とか、「名神大社に列せられていました」などと書かれたものがありますが、これはこの延喜式を根拠にしています。
延喜式所載の神社は「式内社」と呼ばれ、千年以上続く由緒ある神社ということになります。延喜式では、式内社2861社をさらに4つに分類しています。
- 官幣大社 - 198社
- 国幣大社 - 155社
- 官幣小社 - 375社
- 国幣小社 - 2133社
- (名神大社 - 224社)
朝廷から直接、幣帛(お供え物)を受ける神社が「官幣社」、その国の国司から受ける神社が「国幣社」、さらに大社と小社の区別がありました。また官幣大社と国幣大社の中で、特に霊験あらたかで高名な神社は「名神大社」と呼ばれ、特別に記されています。
延喜式神名帳の「山陽道安藝國」は次のような記載になっています。
- 佐伯郡二座 並大
- 速谷神社 名神大 月次新嘗
- 伊都伎島神社 名神大
- 安藝郡一座 大
- 多家神社 名神大
安芸国は3社ですが、すべてが名神大社です。速谷神社には「月次新嘗」とあり、これは官幣大社であることを表しています。伊都伎島神社は安芸の宮島・厳島神社、多家神社は安芸郡府中町の多家神社(埃宮)で、ともに国幣大社です。「山陽道備後國」には、福山市の沼名前神社や府中市の甘南備神社など17の神社があり、いずれも国幣小社です。
この延喜式の内容から、速谷神社は古代、毎年4回、さらに臨時祭にも朝廷から幣帛を受ける官幣大社、名神大社として、広島県地域で突出した神社であったことがわかります。よく「速谷さんは宮島さんより昔は格が上だった」と話される人がいますが、それはこれら古代の社格を指しています。
さてこの官幣大社ですが、実は畿内に集中しています。当時の神社は、上京して神祇官から幣帛を受け取り、それを持ち帰って神前にお供えするのが決まりでした。しかし遠隔地から毎年、上京するのは困難で、その国の国司から幣帛を受け取る神社が増えていきます。それでも朝廷は、特に重要な神社について、たとえ遠方であっても直接、幣帛を奉ることを止めませんでした。
実際に律令制のもとで都から遠い「遠国」と呼ばれた地域で官幣大社は、わずか五社に過ぎません。武藏國の氷川神社、安房國の安房坐神社(安房神社)、下總國の香取神宮、常陸國の鹿嶋神宮(鹿島神宮)、それに山陽道安藝國の速谷神社です。速谷神社は古代、中国九州地方唯一の官幣大社として、朝廷から最高の社格を認められていたことになります。
ではなぜ大和朝廷は西国では速谷神社にだけ、格別な取り扱いをしたのでしょうか。それは速谷神社の成り立ちに大いに関係があるとみられています。
広島県には、地方制度が確立する以前から阿岐(安芸)国造(あきのくにのみやつこ)が支配する独立した「阿岐国」が成立し、当時は、東は東広島市や三原市に流れ込む沼田川流域、西は県境を流れる大竹市の小瀬川一帯、北は安芸高田市におよぶ大国だったようです。この地域は九州や朝鮮半島に備える西の要であるばかりか、大和に対抗するほどの強大な勢力を誇った出雲への抑えとしても、極めて重要な戦略上の要衝でした。
平安時代の史書は、阿岐国造の同族たちが陸奥や佐渡、周防や伊予などの支配を許されたことを伝えていますが、その地域が当時、朝廷を守る最前線であったことも大変に興味深いポイントです。
速谷神社のご祭神様は、この阿岐国造の祖先神、あるいは守護神として祀られた神霊で、大和朝廷が速谷神社を厚く遇した背景に、国家統一の過程で、有力な大豪族の影響力に対する強い期待感、そしてその祖先神・守護神に対する深い畏敬・尊崇の念があったことは間違いがないように思います。
さて平安末期になりますと、厳島神社が平家一門も崇敬を集めて、空前の盛運をみるのに反して、速谷神社は衰退の途をたどることになります。それでも安芸守護、大内氏や毛利氏などの戦国大名、浅野長晟以下の歴代の広島藩主などが神宝や社領の寄進、社殿の造営修復を行っています。
近代に入り、神社を「国家の宗祀」とする明治政府の政策で、近代社格制度が新たに整備されます。
神社は「官社」と「諸社」に大別され、官社は延喜式の時代にならい官幣社と国幣社、さらに別格官幣社、諸社は府県社、郷社、村社、無格社に分けられます。
官幣社と国幣社は官社としてほとんど差はなく、菊の紋章を社殿装飾に使うこともともに許されていました。ただ祭事のうち例祭のみが、官幣社が皇室から幣帛料が支出されたのに対して、国幣社は国庫から支出されました。当初、官社に列格したのは全国97の神社でした。
官社
- 官幣大社
- 国幣大社
- 官幣中社
- 国幣中社
- 官幣小社
- 国幣小社
- 別格官幣社
諸社
- 府県社
- 郷社
- 村社
- 無格社
明治6年、速谷神社の社格は、わずかに「郷社」の扱いでした。しかしその後、神社の調査が進み、全国的に官社や府県社、郷社への列格、あるいは昇格する神社が相次ぎます。
速谷神社も、有識者を中心に顕彰、社格の昇格、社殿造営の運動が起こり、大正13年10月には新社殿が完成、翌11月には、待望の国幣中社への列格を果たしました。
終戦時には朝鮮や台湾の神社も含めて、220余りの神社が官社に列せられています。
ちなみに広島県内の官社は、国幣中社の速谷神社のほか、厳島神社(廿日市市)が官幣中社、沼名前神社と吉備津神社(福山市)が国幣小社に列せられていました。
戦後、ほとんどの神社は包括団体としての「神社本庁」に結集しました。社格制度はなくなりましたが、事務運営の都合上、一般の神社とは別に規模によって「別表神社」が定められ、現在では、全国79,021の神社のうち速谷神社など351社が別表神社に指定されています。
第2号 平成21年5月1日