『延喜式神名帳』にみる神観念と速谷神社
出仕 瀨戸一樹
今年度から速谷神社にご奉仕することになりました瀨戸一樹です。さっそく今回の「神社だより」を書くことになりました。よろしくお願いします。
私が四年間、学んだ大学は三重県伊勢市にあります。大学の近くには伊勢の神宮が鎮座されています。正確に言えば単に「神宮」と申し上げます。ご祭神は天照坐皇大御神さまで皇室の祖先神であり、この世界の隅々を光照らしてくださる神さまです。そのことから日本人全体の総氏神さまと称えられています。
神宮のご祭神が天照坐皇大御神であるということはよく知られていますが、皆さんのお近くの神社のご祭神がどなたで、どんなご神徳(性格)をお持ちの神さまかを知らずに参拝されている方も案外多いのではないでしょうか。天満宮なら菅原道真公、稲荷神社なら倉稲魂神さまなどそれぞれの神社で、それぞれの神さまがお祀りされています。
しかし古い時代の人々は神社のご祭神が、どなたであるかなどあまり関心がなかったようです。むしろ知る必要もなかったというべきかも知れません。
神社を知る上で大変重要な文献に『延喜式』というものがあります。これは平安時代の法律の運用書ですが、全五十巻のうち、巻九・十が「神名帳」と呼ばれ、全国の有力な3132座の神さまが列記されています。しかし「神名帳」といいながら、実のところ具体的な神さまの名前はほとんど載っていません。
速谷神社のご祭神は「飽速玉男命」ですが、この名はどこにもありません。また同じ安芸国の厳島神社のご祭神「市杵島姫命」もしかりです。速谷神社は「速谷の神」であり、厳島神社は「伊都伎島の神」とされています。厳島の神は安芸国伊都伎島に坐(いま)す神といっているのに過ぎません。
『延喜式』では、ほとんどが「(地名)の神」として紹介されています。「速谷の神」と書かれているところをみますと、その昔、神社周辺の地名も安芸国平良郷速谷と呼ばれていたのかも知れません。
さて古代の人たちにとって、神さまの具体的な名前よりも、その神さまがおられる場所の方が大切だったということは何を意味しているのでしょうか。昔の人たちは地域ごとに神さまを祀ってきました。集団(ムラ・クニ)をつくると、その集団ごとに自分たちを守ってくれる守護神を祀って崇敬してきました。
最初は同じ土地に生活する一族(血縁)で神さまを祀ってきました。藤原氏の春日大社、物部氏の石上神宮などがそれにあたります。しかし時代が下るにつれて血縁は薄れ、同じ郷土の人々(地縁)によって祀られてきたものが、今の氏神さまです。現代でも会社という集団において、ビルの屋上などに小さな神社を祀るということがよく見られます。これは会社という集団の守護神に他なりません。
そのように、古い時代の日本人にとっての神さまとは、その土地に住む人々の生活を守護してくださる神さまであって、神名も「○○の土地に坐す神」という表現で十分だったのです。
これが「神名帳」の記載から見えてくる古代日本人の神観念、神様に対する意識です。
さて当神社のご祭神「速谷の神」は安芸国の祖神(おやがみ)であって、私たち旧安芸国に住む人々を守護し幸せを見守ってこられた「安芸国の大神さま」です。
伊勢の神宮が日本人の総氏神であるように、速谷神社は安芸国人の総氏神なのです。
ぜひ旧安芸国にお住いの方々は速谷神社をご参拝いただき、日頃の感謝の祈りを捧げて、ご加護を受けていただきたいと思います。
また安芸国にお住いでない方も、中国地方でも格別の社格を誇った当神社の境内に一歩足を踏み入れて、古代から続く信仰空間を肌で感じていただきたいと思います。
第3号 平成22年4月30日