八幡信仰の広がりと速谷神社
出仕 小野 雄生
今年度から速谷神社に奉仕することになりました小野雄生です。浅学菲才の身ではありますが、今回の神社だよりを担当することになりました。今後ともよろしくお願いします。
ところで皆さんは全国で一番数が多い神社をご存知でしょうか。答えは『八幡神社』です。神社本庁が行った調査によりますと、その数なんと7,817社。全国には8万社あまりの神社がありますから、そのうちの約1割を占めていることになります。
八幡神社で有名な神社といえば、宇佐神宮(大分県)、石清水八幡宮(京都府)、鶴岡八幡宮(神奈川県)の三社が挙げられます。7,817社あるうちのほとんどは、今挙げた三社から勧請(かんじょう・神の分霊を他の神社に遷し祀ること)され、創祀された神社になります。
八幡信仰の総本社は、大分県の宇佐神宮です。この神社には、ご祭神として応神天皇(誉田別命)、神功皇后(息長帯姫命)、それに比売大神三神(多岐津姫命、市杵嶋姫命、多紀理姫命)がお祀りされています。
全国にある八幡神社も、基本的にこれらの神をご祭神としていますが、場所によっては、応神天皇の父である仲哀天皇などをあわせてお祀りしている神社もあります。
それでは都から遠く離れた九州という土地で起こった「八幡信仰」が、なぜ全国に広まることになったのでしょうか。
その契機は大きく分けて二つあります。
ひとつは、奈良時代に聖武天皇が行った東大寺大仏の建立です。この時、八幡神が託宣(たくせん・神がお告げをすること)を発し、大仏鋳造を成功に導いたといわれています。天正勝宝元年(749)、国家を守護する寺院として東大寺が完成すると、すぐに八幡神が宇佐から奈良に勧請されます。このことが九州から全国に、八幡神が進出する最初のきっかけとなりました。東大寺の隣に寺を守る守護神として建てられた「手向山八幡宮」は、その時に勧請された神社です。
その後も平安遷都によって、貞観2年(860)には石清水八幡宮が勧請され、八幡神は都を守る神、さらには国家鎮護の神として朝廷から崇敬されることとなっていきます。
続いて二つ目の契機、それは武家である「源氏」に強く崇敬されたことです。
源氏と八幡神の関係を表す文献として、『尊卑(そんぴ)文脈』があります。これによると、源氏の基礎を築いた源義家が、七歳の時に石清水八幡宮の社前で元服し「八幡太郎義家」と名乗ったことが伝わっています。
鎌倉幕府を開いた源頼朝は、源義家の父、頼義が鎌倉に勧請した鶴岡八幡宮を現在の地に遷(うつ)して整備し、幕府の守護神として篤く崇敬します。鎌倉時代、時代の頂点に立った人物が熱心に崇敬すれば、その信仰が全国に広まっていくことは自然なことです。
ここまで八幡信仰が全国に広まった経緯を説明してきましたが、速谷神社の近くにも八幡神社があることを皆さんはご存知ですか。
由緒は不明で、神社のランクを示す社格も無格社。現在は速谷神社の神職によって、旧暦の9月14日に八幡祭(放生会)が執り行われています。
この二重原八幡神社が鎮座されている二重原という地名は昔、「?原」、「贄原」とも記されていました。
ところでこの「贄(にえ)」という文字には、共同体において田んぼからとれる初穂などの食物を神様へ供するという意味があります。このことから二重原という地域は、速谷神社の神様のお供え物を整える役割を担っていた土地と考えることもできます。
ぜひ速谷神社にお参りに来られた際には、もう少し足をのばして八幡神社もご参拝されてみてはいかがでしょうか。
第13号 平成26年7月10日