土宮遷宮奉仕を終えて
宮司 櫻井 建弥
伊勢の神宮で、皇大神宮(内宮)ならびに豊受大神宮(外宮)の両正宮、それに内宮第一別宮の荒祭宮(あらまつりのみや)、外宮第一別宮の多賀宮(たかのみや)において、平成二十五年秋、「遷御の儀」が斎行された事は記憶に新しい事と思います。(「神社だより第12号参照」)
しかし、御遷宮は、内宮・外宮だけで行われるものではありません。両正宮についで尊いお宮である残る十二の別宮(べつぐう)についても、昨年秋から遷御の儀が始まり、今年三月まで続けられています。
外宮の別宮のうち「土宮(つちのみや)」の遷御の儀は、天皇陛下の御治定により一月二十八日と決まりました。神に慎んで仕える事を「奉仕する」と申しますが、私は光栄な事に、この土宮奉仕を神宮司庁より命じられました。
去る一月二十七日、午前十一時に外宮斎館に集合し、潔斎、改服のあと、辞令を頂戴しました。土宮奉仕は、神奈川県、三重県、奈良県、広島県、それに愛媛県から一人ずつの計五名の神職。私達は「宮掌補(くじょうほ)」という立場での奉仕です。
午後三時から「川原大祓(かわらのおおはらい)」。これは、遷御前日に祓所において、遷御の諸具や御装束、神宝および大宮司以下諸員を祓い清める神事で、ここでしか奏上されない「祝文(しゅくぶん)」も奏されました。
翌二十八日はいよいよ遷御の儀当日です。午前中は神宮職員に、宮城内の御饌殿(みけでん)や上御井神社(かみのみいのじんじゃ)などをご案内頂き、午後は遷宮の祭式を最終確認し、心静かにその時を待ちました。
午後七時、斎館前に列立。報鼓(ほうこ)と呼ばれる太鼓の合図を待って大宮司、少宮司以下諸員が参進し、土宮御前に到着。宮掌補は「執物(とりもの)奉仕」となり、私は神宝の「御楯(おんたて)」の所役を命じられました。「御楯 建弥」という召立(めしたて)の声に応じ、神宮宮掌と二人で御楯を授かり捧持し、神のお出ましである「出御(しゅつぎょ)」を待ちます。
午後八時、『カケロウ』という鶏の鳴き声を三回唱える「鶏鳴三声(けいめいさんせい)」が響き、大宮司が『出御』と三回奉唱し、純白の「絹垣(きんがい)」に囲まれた神儀が新宮に向けて静かに進みます。新宮に「入御(にゅうぎょ)」し御装束や神宝を奉納、大宮司祝詞奏上のあと、神宮の拝礼である「八度拝(はちどはい)」を行いました。
遷御当日は寒波が到来し零度に近い気温の中、重さ二十キロ以上もあろうかという御楯を、無事に新宮に納める事で私は頭がいっぱいでした。松明の灯だけの浄闇の中、新宮の御扉(みとびら)が閉じられた瞬間、重責をやり遂げた安堵感から胸を撫で下ろした事をよく覚えています。
翌二十九日、私達は御役御免で、新宮に初めて神饌(しんせん)をお供えする「大御饌(おおみけ)」や幣帛(へいはく)をお供えする「奉幣(ほうへい)」を奉拝席から見学させて頂きました。
土宮は旧宮と新宮が近く、その距離は五㍍もありません。ともに奉仕した神職は両宮を見比べて「旧宮は神霊(たましい)が抜けているようだ」といいました。片や新宮は、命の輝きがほとばしり、力がみなぎっていました。そこには建物の古い、新しいという違いを超えた何かが確かにありました。私は遷御の翌朝、新宮に神の実存を認め、心が震えるほどの感動を覚えました。それは、ただただ有難かった。
神宮の式年遷宮は千三百年前から続けられ、二十年に一度、神々に新宮へとお遷り頂くわが国最大のお祭りです。神々は遷宮によって若返り、それにより日本全体が発展すると信じられています。
連綿と受継がれてきた式年遷宮。次の遷宮の準備はすでに始まっています。第六十三回の次回の遷宮は私達の世代が中心となって成し遂げ、そして、また次の世代へとこの感動を引き継いでいかなければならないと強く感じました。
第16号 平成27年2月10日